数寄
「数寄とは何か?」
『源流茶話』には、「ある書には数寄は嗜むという意味がある。しかし数寄は茶事が始まりではなく、古来から中国、日本でも文人に用いられている文字である」と。数寄は詩歌の世界で用いられ、やがて茶の湯のことを指すようになる。
嗜むというのは「好んで親しむ」「好んで熱心にする」と辞書にはある。つまり執心すること。しかし、執心の度合いが強すぎると「物好き」と云われ、そのバランスは難しい。
『山上宗二記』には「目利きであり、茶の湯も上手く、茶の師匠をしている者を茶湯者と云う。道具は持っていないが、茶の湯に対する覚悟、つまり志し強く、創意工夫ができる、能力もある人を侘数寄者と云う」とある。覚悟のあらわれ、こだわりが執心度となる。その代表が粟田口の善法。彼は燗鍋一つで、食事も茶の湯もした。彼のこだわりの象徴が燗鍋だ。燗鍋一つあれば食べていけるし、茶の湯も楽しめる。
しかし、山上宗二は、いくら目利きであろうと、志深くとも、唐物を一つ持てないようでは、名人とは云わなかった。贅を尽くした室町将軍家の御物を抱える書院式台子茶。一方、禅の精神に基づいて清貧を貫く侘び茶。珠光により両者が融合し体系化され茶道へと発展する。これは山上宗二記をはじめ、多くの茶書が伝えるところである。歴史的事実か否かは別にして、矛盾する茶の湯の二面性、聖と俗はこの伝承からもわかるように当初から内在しているものであった。
批判の対象になる俗なる一面、権威主義、拝金主義も茶の湯の現実であり、我々茶人は茶の湯創成期から二つの狭間を彷徨してきた。それ故茶道は極めて人間味のある哲学ともいえる。岡倉天心が茶道を「我々はどのように生きるべきかという『生きる技』を説く宗教」(立川智子訳)と評したのは的を射た指摘だ。
小堀遠州の夜会習い事に「数寄の道は心持きれいなるよう心得べきなり。枯木の雪に折れたるごとく、しほらしき様に、成り難きものなり」とある。数寄の道を歩むには、心を綺麗に保たなければならない。無為自然というべきか、しおらしさ、清らかさ、謙虚な心を持ち続けることは難しい。
近代になると益田鈍翁をはじめとする数寄者たちが登場する。彼らの遺産は冠名が付けられた美術館・記念館を見ればわかる。こちらの数寄は意味合いが異なってくる。しおらしさ、清らかさを感じることは無い。「茶道は知足の道なり。知足は足ることを知ると読むなり。皆人々程々不足にても事足るものといふことを知ることなり」と不足の茶を唱えた松平不昧も、後年、不足どころが有り余るほどの名物蒐集に走った。もっともそれは個人の慰みのためではなく「名物は天下古今の名物にして、一人一家一世のものにあらず」と云うことらしいが…。
数寄は聖俗相俟った言葉だ。だからこそ、茶の湯は現代まで伝えられてきた。夏目漱石の草枕の有名な冒頭は数寄の世界にも当てはまる。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」
我々はどのように生きるべきか?己の数寄の道を歩く。
茶道とキリスト教
キリシタン茶人の存在、茶道具や燈籠等に取り入れられた意匠、茶道とミサの所作の類似性から、茶道はキリスト教の影響を受けているという説がある。
しかし、キリスト教伝来の頃にはすでに茶の湯は流行の兆しを見せていた。キリスト教布教の一つの指針が、日本の文化、思想を尊重し、同化をはかることにあった。その一つが茶の湯の利用であり、キリストの教えを広める一助としたのだ。宣教師は布教のため茶の湯を利用したのであり、そういう意味では茶の湯とキリスト教は関係があると云えるが、ミサの所作を点前に取り入れたという説等は、世界中の聖なる儀式の類似性を見れば当然のことであり、日本にも清めの儀式は神代の時代から存在するのだ。
利休の創意によって始められたと伝えられる濃茶の回し飲み。利休がミサにおけるカリスの所作に触発されて取り入れたとの説もある。”回し飲み”は酒を代表するように古来から日本人の慣習にあったものである。中世には一揆に参加する民衆たちが団結をはかるため起請文を灰にして神水に溶かし回し飲んだという”一味神水”と云う儀式もあらわれた。初期の頃に伝来した高麗茶碗が大ぶりなものが多いことからみても、”人と人”、”人と神”、”人と仏”を結びつける茶の湯に取り入れられるのは必然であったと思われる。
私が一番興味を持ったのは高山右近をはじめとするキリシタン茶人の存在であった。彼は信仰のため大名の座も捨て去り、イエスに一生を捧げた。「喫茶に禅道を主とするは、紫野の一休禅師より事起れり」で始まる『禅茶録』。茶道が禅道を主とするならば、キリシタン茶人は最初から自己矛盾の中で生きていたわけだ。しかし、右近は大名を捨てても、キリスト教も茶道も捨てなかった。
茶禅一味という思想は茶道の根幹を成すものであるが、その思想が定着するのは実は江戸時代に入ってからである。小堀遠州が春屋禅師の書を好んで掛けたことから、沢庵禅師や江月禅師など大徳寺の僧侶の書を床の間を飾ることが流行する。『南方録』の「掛物ほど第一の道具はなし。客、亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。墨蹟を第一とする」と云う考えは、現代の茶道にも大きな影響を与えた。
キリシタン茶人の存在が江戸時代以前の茶の湯の性格を知る一つの手がかりとなる。宣教師たちが激しく攻撃した既存の仏教、茶の湯の思想の根源が禅であったならば、布教のために茶会を利用しようとは思わなかっただろう。
宗湛日記を読むと、高山右近の茶会の様子を垣間見ることが出来る。
「二畳敷、床無。道籠に肩衝とせと茶碗と置双て、脇に柄杓立て懸け、つり棚には引切一つ、壁の方に。せと水指、めんつう、風炉なり。茶の後に、つり棚に肩衝を上て置、亭仰せられるには、遠国なれば、また会を仕るべく事難有候ほどに、上げて今ちと御目懸るべきと候なりと雑談なり」とある。
右近はこの頃、キリシタン禁教の中客分となっていた前田利家に従い名護屋に従軍していた。茶室は床無。掛物は掛けなかった。