たなごころの茶
茶道を敬遠する理由に、茶室の中での所作、振る舞いを知らないと恥をかいたり、煩わしくて面倒くさいということをあげる人がいる。
しかし、茶室での振舞いは特別なことをする必要はない。全ての所作の根底に流れているものは「人やモノを大切にする心」である。人に対しては思いやり、道具に対しては大切にしようという心があれば、人やモノをおろそかに扱ったりはしない。
ペットボトルを片手に飲む姿は日常茶飯事となってきた。それが湯飲みでも、ティーカップでも、茶杯であっても多くの人が片手で口元に持っていく。茶道と異にするのは、このように器に対しての扱い方であり、飲み方である。茶道では道具を最初から最後まで片手で扱うということはほとんどしない。両手で扱ったり、片手で持ち上げた場合も、もう片方の手で軽く添える。その象徴的なシーンが抹茶を飲む姿である。しっかりと、茶碗を左手のひらに受け、右手を添えてお茶を頂く。
両手で扱うことは、手の内にしっかりと道具を包みこむことにある。手の内は「掌(たなごころ)」といって、自分の心を映す鏡を意味する。自分の心の中に道具を受け入れるということは、自然に道具に対しても心が宿る。大切なもの、また愛児・愛妻をたとえて「掌の玉」と言う。神さまにお願いごとをする時は「掌を合わ」る。大切にしようという思いが両手という形であらわれるのだ。茶道に見える両手で扱うという、一見まどろっこしく見える所作にこそ、万物にも心が宿り、生きとし生けるものに感謝するという日本人の心をうつしている。
このように茶室の中でも、モノを大切にする心があれば、作法に対しても迷うことも少なくなる。たんに両手で扱うということだけでなく、人やモノに対しての心遣いが、自然と所作に現れるからである。
今まで片手で扱っていたものを、しっかりと掌で受け両手で持ってみて欲しい。きっと心の変化に気がつくはずだ。
茶の湯に年齢のハンディなし
三大茶人と呼ばれる、千利休・古田織部・小堀遠州。彼らが名実とも天下一宗匠として活躍した時期は短い。利休は豊臣秀吉が天下を取り、関白として正親町天皇に献茶、その後見役を務めて以降、天下一の茶風をもってその名を世に知られる。64才の時である。しかし、秀吉の勘気に触れ切腹、その生涯を終えるのはわずか6年後のことであった。利休の弟子である織部は、利休亡き後、茶の湯名人として知られてはいたものの、織部の名を不動のものにするのは、二代将軍徳川秀忠に台子茶湯を伝授し天下大和尚と称されてからである。すでに67の齢を数えていた。その5年後には、奇しくも師匠と同じ運命を辿り、謀反の疑いをかけられ自刃する。
織部の弟子、小堀遠州は築城、造園にもその才を発揮、57才の時に三代将軍徳川家光に献茶、将軍家茶道指南役として69才の天寿を全うするまで日本文化を牽引する。人生50年と謡われた時代、まさに最晩年、生涯現役、今日でいう後期高齢者世代での活躍である。
茶人として名を残している多くの人が若い頃から茶を嗜んでいたわけではない。茶の湯好きとして知られる秀吉は40才を越えるまで織田信長から茶の湯を許されなかった。織部が利休に入門したのも40才前後といわれる。最近でも昭和最後の数寄者といわれる電力王、松永安左衛門(耳庵)は60才にして茶の道を志す。茶の湯は他の芸事に比べると、年齢のハンディはない。むしろ人生経験豊かな方が茶の湯に利していると言っていいだろう。茶の湯において若き天才は存在しない。茶の湯はたんなる点前の技、知識の習得ではないからだ。どんなに知識が豊富で目利きであったとしても、どんなに美しい点前であろうと、名碗で点てようが、人生のベテランが点てたお茶には到底かなわない。
お茶を志すのに年齢は関係ない。茶の湯は年を重ねれば重ねるほど、その輝きが増してくる。