武士道とダンディズム
新渡戸稲造もその著書「武士道」で「武士の教育において、美の価値をみとめることが重要な役割を果たしてきた」と述べているように、茶道がサムライの精神形成に大きな役割を果たしてきたことは云うまでもない。人と人との付き合いで重要である礼に対しての心構えもまた「礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行うので、いつも優美な感受性として表れる。礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである」と述べている。形式主義的に見られがちな茶道の稽古も洗練された点前・立ち居振る舞いを繰り返すことにより、感性を磨きあらゆる事象に神経を研ぎ澄ませる訓練につながる。そして、立場を越えて常に相手を思いやる心こそが礼につながるのである。
遠州の美学「綺麗さび」はダンディズムの世界にも通じる。ボードレールはダンディズムを「ダンディの美の特質は、何よりも、心を動かされまいというゆるぎない決意からくる、冷ややかなようすにある。ひそんだ火の、輝くこともできるのに輝こうとはせずにいるのが、外からそれと洞見されるさま、とでも言おうか」と述べている。ヨーロッパでダンディズムが興るのは18、19世紀頃、遠州は世界に先駆けてダンディズム的生き方を実践していたことになる。しかし、遠州のダンディズムはヨーロッパのそれと明らかに異なる。
それは利休、織部にもない覚悟であった。岡倉天心は武士道を「死の術」、茶道を「生の術」と表現した。気高く覚悟ある生き方こそが、今私たち日本人に必要とされていることなのである。
さくらに託した覚悟
遠州が天下一の宗匠と呼ばれるようになったのは、寛永13年江戸品川御殿において三代将軍徳川家光に献茶をしたことによる。この時、床の間に掛けられた掛物が、現在北村美術館に所蔵されている藤原定家筆「桜ちるの文」である。この文には、前十五番歌合にある紀貫之の「桜散る木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ降りける」と凡河内躬恒の「我が宿の花見がてらに来る人は 散りなむ後ぞ恋しかるべき」の二首の上句が書かれていることから、「桜ちるの文」と呼ばれるようになった。
遠州が一世一代の晴れ舞台にこれを選んだのには深い決意があってのことと思われる。利休、織部と伝わる茶道の本流を受け継ぎながらも、二人とも主君である秀吉、家康の勘気に触れ心ならずも切腹して果てた。二人の運命を見てきた遠州は桜に己の心を託し、サムライとしての覚悟を示したといえよう。徳川家のために花を咲かすことが出来るならば、散ることも厭わず、潔く命をも捧げましょうと。
生きる覚悟、いつでも死ぬる覚悟が、気高く、気品ある茶の湯へと昇華させる。覚悟はあきらめるという意味ではない。利休の弟子である山上宗二も数寄者の条件の一つに「胸ノ覚悟一」とあげている。それは茶の湯の世界だけではない。現在でも仕事、勉学、スポーツ、芸能、それがけっして報われないとしても、覚悟した者は美しく強く輝いている。『綺麗寂び』とは生き方そのものなのである。